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電子書籍名言・引用まとめ

街道をゆく 24 近江散歩、奈良散歩

司馬遼太郎

Quotes List

一村の鍛冶があつまってその仕掛けを見きわめ、完成したのが、わずか六カ月後の八月十二日だったそうである。

細川晴元が、北近江の守護職である京極氏に

その義晴が、侍臣細川晴元に、

『国友鉄炮記』によれば、種子島の島主時堯はポルトガル人から得た鉄砲を島津義久に贈った。当時、種子島家は独立の大名だったが、島津家とは濃厚な関係にあった。もらった島津義久が、京の将軍足利義晴にこれを贈ったという。  なんだかとんとん拍子に鉄砲が上洛してゆく感じだが、一応信ずることにする。

僧が、いっせいに還俗することによって寺をすてた以上、寺も仏像も宝物も持主なしで路上にほうりだされたのと同然だった。

ここで考えねばならないのは、興福寺の大檀那が藤原氏であることである。鎌倉期までの日本政治史は、藤原氏の家族史でもあり、権力と富はこの一門にあつまった。そういう家の氏寺である以上、平安期いっぱい、興福寺には荘園が寄進されつづけた。

京の公家とその子である興福寺の院家(高級僧侶)たちは、その出身家格にふさわしい俗世の場としてしか興福寺を考えていなかったといえる。

やがて法蔵が、哲学体系としての華厳宗を大成する

「『華厳経』は、釈迦が悟りひらいて最初に説かれた思想である」

華厳というコトバは、中村元『仏教語大辞典』によると、サンスクリットのGaavyūha の漢訳で、原語は「雑華の飾り」という意味だそうである。同書では、「いろとりどりの華によって厳られたもの」という意味であるともいう。

修二会は、最初は、官寺としての東大寺の公式な行事ではなく、実忠の私的な行事だったようで、

兜率天には、歳月はないにひとしい。その世界を写した二月堂修二会の行法でも、歳月は宇宙のようにゆるやかである。すでにふれたように兜率天の一昼夜は人間の四百年にあたる。人は変っても「こもりの僧」そのものは、歴世連鎖して、歳をとるということがない。つねに壮年か、あおあおとした若い僧である。  たしかに、東大寺には、兜率天がある。

以上も以下も、日本人の精神ということについて考えている。一向宗だけでなく、キリシタンの場合も、みずからを砕いた。豊臣期から江戸初期にかけて、おおぜいのひとびとが転宗よりも天国にゆくことを望んだという大量殉教の事件は、世界キリスト教史にもめずらしいほどの現象だった。当時の士民をとらえたキリスト教の魅力ということはさておき、キリスト教が、日本人の心に眠っていた節義というものを激しく覚醒させた事件として、精神史上のできごとであったといえる。もしこういう「事変」がなければ、日本人は信用するに足りない民族だと考えられてもしかたがない。

「かしこまりました。それではあすの三時に届けさせて頂きます」  というふうに。この語法は、とくに昭和になってから東京に滲透したように思える。明治文学における東京での舞台の会話には、こういう語法は一例もなさそうである。

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