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電子書籍名言・引用まとめ

評価と贈与の経済学

内田樹
岡田斗司夫 FREEex

Quotes List

義務教育でもなんでも、「勉強したい」って思わなかったら、子どもは勉強しないですよ。自分が学びたいことしか学ばない。自分が学びたいことは、「やめろ」と言われても学ぶ。

いましている努力に対して未来の報酬が約束された時代なんて、これまでだってなかったんだよ。

親切って、使ったら目減りするっていうものじゃないから。親切にすればするほど、親切の総量は増えてゆく。親切にされた人はほかの人に親切にするから。

「あなたがたはもっとも抑圧されているので、それゆえ誰からもなにも学ぶ必要がない。ただ不平不満を大声で告げていれば、それが真理の表明になり、社会は改革される」というようなことを言ったら、言われたほうは「あ、オレこのままでいいのね」ということになるでしょう。現に社会の下層にいる自分を全肯定しちゃうことなんだよ。それって、現状肯定にしか行き着かない。

努力と報酬が相関するというのは、理想なの。はっきり言えば、嘘なの。

女の子は身体的に月に一回自分の身体があることを意識させられるけど、男って身体がないって考え方ができるじゃないですか。子どものころから痛くても痛くないふりをすると褒められる。悲しくても涙をこらえないと怒られる。身体性を無視するように男の子はしつけられてますから。

もっとも抑圧され、もっとも収奪されている社会集団に社会矛盾が集中しているから、その集団の解放が社会改革の「レバレッジ」になるというのはマルクス主義の考え方で、それは正しいとぼくも思うんだよ。でも、ここから「もっとも抑圧され、収奪されたものがもっともよくこの社会の構造を理解している」という命題は導くことができない。これを言ったら、もう知的成長が終わってしまうから

適切な報酬がないのは社会システムが間違っているからだって言う人がいるけど、社会システムなんて、もともとそんなものなんだって。

よく一九六〇年代高度成長の時代、日本社会は希望にあふれていました、なんてことしらじらと言うけど、あれは嘘だよ。

身体は惰性が強いから。「曲がれ」って言われても、急には曲がれない。だから、身体中心だと「心が折れるかも」っていう予感があったら、折れないような方向にのろのろと進路を変更する。そういう進路変更はけっこう手前から、無意識的に行っているんだと思う。道を歩いているときに、どぶに落ちないように歩き方を調整するのとおなじで。別につねに「どぶに落ちないように」を意識してないでしょう。おしゃべりしてても、物思いにふけっていても、ちゃんと道のあるところを歩く。 「心が折れる」人って、道を歩いていて「どぶに落ちる」人に近いんだと思う。そっちに行ったら危ないよという身体的なシグナルが感知できていないんじゃないかな。

二十年前の日本の学術レベルはアジア最高だったんですよ。でも、そこに市場原理や競争原理を導入して、全部ぶち壊しにした。学術的業績を数値化させて、それで資金を分配した。「その研究は金になるのか?」ということにしか興味を示さなかった。そんなしょぼい研究環境で学術的なイノベーションが達成されるはずないでしょう

「生物としての強さ」なら、十二歳の子どもでも持っている。人をまっすぐ見るときの眼の力とか。限られた語彙で人を説得しようとするときの勢いとか。そういうものに触れると、こちらも思わず正面から向き合って、つい敬語になってしまう。いまの日本にいちばん欠けているのは、そういう種類の敬意だとぼくは思います。

それと一緒で、いつもいつも「どこにどういうパスを出したら、ゲームが楽しくなるか」を想像している人が、良きパッサーになれる。いつも空想していないといけないんです。ここに十億円あったら、みたいな妄想するときでも、それでフェラーリ買って、ホノルルにコンドミニアム買って、香港で満漢全席食って……みたいな想像しかできないやつはパッサーにはなれないんです。 その十億円をどう分けて、誰と誰にパスしたら、いちばんファンタスティックな展開になるかな……ということを空想していないと。「ほかの人間が誰も思いつかないような使い道」を脳内で妄想している人間のところにいきなりパスが来るんです。

ぼくは教育に関しては楽観論者なんです。人間はみなそれぞれに豊かな潜在資源を持っている。そう思っているんです。でも、それがなにがきっかけで開花するか、それは予測できない。だから、気長にじっくり待つしかない。そのための場を確保しておきたい

リアクションこそが自分ですよと。根源に欲望があると思われたら生きづらくなるから、欲望を消してリアクションだけで生きていくことを選んでいる。欲望がないからリアクションしかすることがない

核戦争はぼくら一般市民には止めようがないから、仕方ないからとりあえず明日の米びつの心配でもするか、という突き放した気分が時代を覆っていた。それが底抜けにナンセンスな映画とか、ワイルドな作品とかを生み出したあの時代の空気なんだよ。それをあとの時代の人に「希望があっていい時代でしたね」とか言われると、なに言ってるのかと思う。

例えば、相手を論破するということができるためには、相手にはこちらが指摘した事実誤認や推論上の誤りを「指摘されれば納得できる」だけの判断力があることが前提になっている。

好きな生き方をすることが人間の最優先の目標だと言われてきた。 でも、そんなイデオロギーが大声で言われるようになったのって、ほんとうにごくごく最近の話ですよ。そんな話、江戸時代でも明治時代でも、戦後すぐでも、ありえなかった。「自己実現があらゆることに優先する」なんて言ったら、気が狂っていると思われましたよ。あらゆることに優先するのは「集団が生き延びること」ですから。

ぼくも講演会で「どうやれば決断力が身につきますか」って聞かれたときに、「決断を迫られてるのはもう負け戦だから」って答えています(笑)。

最終的にみんな孤独になってしまったのは、「ひとりでも生きていける」くらいに社会が豊かで安全になったからです。

家庭のなかでは。ご飯終わったあと、家族でちゃぶ台囲んでるんだけど、基本無言だよ。昭和の家族のイメージって、「ちゃぶ台囲んでみんなで楽しくわいわいやってる」っていうのがあるけど、あれは虚像ですよ。その時代に生きていた当事者自身もそう信じ込んでいるけど、自分の記憶をたどったら、そんなことはないって気がつくはずだよ。

でも、数値的に優劣が決定できるのは「ほかの条件がすべておなじ場合」だけです。だから、競争社会というのは必然的にすさまじい規格化圧力が働く社会になる。

努力と報酬が相関するというのは、理想なの。はっきり言えば、嘘なの。努力と報酬は原理的に相関しないの、全然。するときもあるかもしれないけど、それは例外。

自分が他人からなにをしてもらえるかより先に、自分が他人になにをしてあげられるかを考える人間だけが贈与のサイクルに参入できる。それはその人の貧富とか社会的地位の高低とはまったく関係がないことなんです。「まずはオレの努力と才能にふさわしい報酬をよこせ、話はそこからだ」という人には永遠に贈与のロジックはわからない。

単独で「誰にも迷惑をかけない、かけられない」生き方を貫くより、集団的に生きて「迷惑をかけたり、かけられたり」するほうが生き延びる確率が圧倒的に高いんですから。

相手の幼児性を温かく許容することができる男。モテる男ってだいたいそうですよ。だって、相手の幼児性を厳しく批判してモテると思います?

「わかった! このあとこういう展開になるんだろ」って観客にまず思わせる。そして、全然違うオチに引っ張り込む。「わかった、いま作家を出し抜いた」というのって読者にすごい全能感を与えてくれるんですよ。そして、一度そういう全能感を与えておきながら、最後に全部ひっくり返す。読者はいったん持ち上げられて、それからうっちゃりを食うんだけれど、それがまた快感なわけです。

太宰治、夏目漱石、森鴎外、永井荷風……やっぱり大作家っていうのは一行目から来ますね。けっこうわかりにくい話からはじまるんですよ。でも、それがね、「こういうむずかしい話からはじめるのは、『その他大勢』を追っ払って、君と二人だけでインティメイトな会話がしたいからだよ」っていうふうに聞こえるんですよ。

ロンドンって私有地が一箇所もないんですよ。ロンドンの全てが英国王室の所有地ということで、家賃収入が入ってくる。独自の財産で動いているから、国民に対しては何にも借りがないんですよ。そして国民は国民で、平気で王室の悪口言う。相手は大家にすぎないから。国王と国民との関係が、大家と店子っていうのは、彼らがたぶん何百年もかけて見つけた落としどころなんだと思います。

結婚もそうです。「誰でもできる」というのが結婚制度を設計したときの第一の条件なんです。それがいまは、お互い死ぬほど愛し合っていて、尊敬し合っていて、あらゆる点で意見や趣味が合って、というような関係じゃないと結婚生活は成立しないという話になっている。だから、平気で「価値観の不一致」というような理由で離婚しちゃうでしょう。そんな高いレベルでの人間的一致が果たされなければ結婚しちゃいけないのだとしたら、人類はとっくの昔に滅亡してますよ。

若者がいま閉塞感を感じているというのは、文字どおり「閉じ込められている」という身体実感があるからじゃないかと思います。外側だけしか見られていない。学歴とか資格とか免状とかTOEICのスコアとかいう外形的な情報だけで中身を計量されていることにつよい身体的な不快を感じているんじゃないかな。

もし自分の差し出したものが向こうの要求を超えるクオリティのものだったら、「おお、これはすばらしい、ぜひ次回もお願いしたいものだ」ってなるじゃない。「次はない」と思っている人間だけが、同時交換・等価交換をうるさく求める。

交易が成立するためには、さまざまな技術や知識が求められる。共通の言語がいるし、共通の度量衡がいるし、当事者双方を拘束する法律がいるし、通信手段や交通手段がいるし、だんだん交易が加速してくれば手続きをスピードアップするために「信用」とか「為替」とかが発明されるし、短期に大量の資金を調達する必要が出てくれば「株式」が登場してくる。こういうもろもろのことを手際よく果たせる人間が社会性のある人間だということになる。物をぐるぐる回すことが結果的に人間的な成熟を可能にする。経済活動の本義はそこから考えなければいけない。

人の世話をするということを、自分が「持ち出し」でやっていて、その分「損をしている」というふうに考えるところに最初のボタンの掛け違いがあるんだと思う。贈与からはじまるんじゃないんだから。人のお世話をするというのは、かつて自分が贈与された贈り物を時間差をもってお返しすることなんですから。反対給付義務の履行なんですよ。

移民社会で、文化が違えば、宗教も言語も違う、というなかでは可視的な基準以外に社会的な成功の度量衡ってほかにないからね。年収というフローか、資産というストックか、どちらのかたちをとるにせよ、お金で示すしかない。

人間の作る集団のベースには、ご飯を一緒に食べるとか、洗濯物を畳んでおくとか、布団を敷いておいてあげるとか、そういう生活習慣を置くべきだと思う。それさえしっかりしておけば、どんなに感情的に対立しても、意見がぶつかっても、生活ベースの関係は瞬間的には解体しないんです。

内田 堤防に穴が空いていて、そこから川の水が漏れ出しているとするでしょ。それを見ても、「オレには関係ねえ。堤防の管理運営はオレの責任範囲じゃないから」ってそのまま通り過ぎるやつがいる。そのうち堤防が決壊して、街が洪水に沈んでも、その人は誰からも責められない。また別の人がいて、その人は堤防の穴を見つけて「おや、穴が空いてるぞ」って、小石で穴を塞いだとする。おかげで洪水は起きなかった。結果的にこの人は街を救ったんだけど、誰も彼が街を救ったことを知らないし、本人も自分が街を救ったことを知らない。だから、誰からも評価されない。 でも、もっとも上質な贈与というのは、こういうふうに本人も知らない、周囲の人も知らないのに、みんなを救うようなことをしてしまっているというものじゃないかと思うんです。 その人が公共の福利にどれくらい貢献してるのか、誰も知らない。本人もなにか特別なことをした気がしない。ただ、ふつうに床のゴミを拾うような感じで、無意識に堤防の穴を埋めた。友達とおしゃべりしながら、ぼんやり考えごとをしながらでも、身体が自然に動いて「いいこと」をしてしまい、そのおかげで世界が救われた。 誰も評価してくれないけれど、その「いいこと」のせいで彼はいま生きているわけですよね。自分自身のささやかな気づかいの受益者は彼自身でもあるわけです。でも、そのことを知らないで、お気楽に生きている。だから、「いい人」の善良さはいわゆる「利益」というかたちで外形化するわけじゃない。彼が世界を救ったことの報酬は、「この人が世界を救ったのです」という外部評価によってではなくて、彼が今日も気分よく暮らしており、「いい人オーラ」を自分でも気づかないうちに圧倒的に発散しているというかたちでもどってくるんだと思います。

「心が折れる」人って、道を歩いていて「どぶに落ちる」人に近いんだと思う。そっちに行ったら危ないよという身体的なシグナルが感知できていないんじゃないかな。

努力はいつか報われるって、本気で思っていたら、人間そうすぐには怒らないもの。「早く、早く」って言うやつは努力の効用をほんとうは信じてないんだよ。だから、そういうやつは実はろくに努力もしてないんだと思う。我慢はしたかもしれないけど、努力はしてない。「しなきゃいけない」と言われたことはしたかもしれないけれど、「これがしたい」と思ったことを必死でしたわけじゃない。

いつだって努力したら、努力した分はちゃんと返ってくるんです。ただ、いつ返ってくるかはわからないし、どんなかたちで返ってくるのかも、わからない。

生きる根拠がないと悩んでいる人たちは、他人に生きる根拠を与えることでしか、その悩みは解消されない。

ぼくらの古典的な考えでは、第一世界のほんとうに大事なときはケータイいじらないって思いますけど、ほんとうに大事なときでも彼ら彼女らはいじるんですよ。それは「自分のなかで複数世界がレイヤー構造になっているという真実」を目の前で見せるという行為を通じて、「各レイヤーのマネジメントをするリアルな姿まで見せてるのは、あなたが大切な人だからだよ」というメタ・メッセージを送っていることになると考えているからだと思います。

パス出さないで持っていると、次のパスが来ない。来たらすぐにワンタッチでパスを出すようなプレイヤーのところに選択的にパスが集まる。そういうものなんですよ。

教育は非効率だけど、非効率でなければ多様な才能は拾えない。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」なんです。数打たせてもらわないと、教育は成り立たない。教育の歩留まり率って、ほんとうに悪いんです。こうすれば子どもたちの潜在能力がたちまち開花しますという奇跡のような方法は存在しない。

「イワシ化する社会」っていうのは「脳化する社会」というのとおなじことだと思うんですよ。みんなが頭で考えて、脳だけで判断するから、その選択が自分の生きる力を高めるか、生き延びる可能性を高めるかということを吟味しないで、ふらふらマジョリティについてゆく。

貨幣の本質は運動だから、貨幣は運動に惹きつけられるんです。だから、どんどんパスを出していると、「あそこはパスがよく通るところだ」って貨幣のほうから進んでやってくるんです。

それと一緒で、いつもいつも「どこにどういうパスを出したら、ゲームが楽しくなるか」を想像している人が、良きパッサーになれる。いつも空想していないといけないんです。ここに十億円あったら、みたいな妄想するときでも、それでフェラーリ買って、ホノルルにコンドミニアム買って、香港で満漢全席食ってみたいな想像しかできないやつはパッサーにはなれないんです。  その十億円をどう分けて、誰と誰にパスしたら、いちばんファンタスティックな展開になるかなということを空想していないと。「ほかの人間が誰も思いつかないような使い道」を脳内で妄想している人間のところにいきなりパスが来るんです。

好きな生き方をすることが人間の最優先の目標だと言われてきた。  でも、そんなイデオロギーが大声で言われるようになったのって、ほんとうにごくごく最近の話ですよ。そんな話、江戸時代でも明治時代でも、戦後すぐでも、ありえなかった。「自己実現があらゆることに優先する」なんて言ったら、気が狂っていると思われましたよ。あらゆることに優先するのは「集団が生き延びること」ですから。

取材を受けたネット難民の若者が「ぼくとおなじように、ここで一カ月以上寝泊まりしている人がほかに三十人います」って言ってるのを読んでびっくりしちゃった。だって、三十人もいるんだよ。だったら、なんであと三人に声かけて、「ねえ、一緒に部屋借りない?」って言えないんだろう。

太宰治、夏目漱石、森鴎外、永井荷風やっぱり大作家っていうのは一行目から来ますね。けっこうわかりにくい話からはじまるんですよ。でも、それがね、「こういうむずかしい話からはじめるのは、『その他大勢』を追っ払って、君と二人だけでインティメイトな会話がしたいからだよ」っていうふうに聞こえるんですよ。

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