QsfromBooks
電子書籍名言・引用まとめ

ガセネッタ&シモネッタ (文春文庫)

米原 万里

Quotes List

人が他国に愛着を抱く最大の理由は、その国の偉大な歴史でも経済力でもない。その国の人々の魅力に尽きるのだから。そして、人の魅力とは、結局、自分たちとさして変わらないということなのだから。

名通訳者には、駄洒落の達人が多い。

外国語や外国文化に接したときの病的反応には、それに夢中になって絶対化するか、逆に自国語と自国文化を絶対化するかの二通りある。明治以降の日本の文化人たちの足跡をたどっても、このどちらかに偏っている場合が多い。

ああ、わたしとしたことが、重大な省略を見過ごしていたのだ。「高齢者支援センター」とは、「高齢者(を対象に業務展開する企業を)支援するセンター」のことだったのだ。

音楽においては美しい音も汚い音もない。大切なのは伝えたいメッセージを最も的確に伝えられる音だ。そのメッセージにふさわしい音、それがいい音だ

曖昧ですが、相手を傷つけずに言いたいことが表現できるのは日本語の非常に優れた財産で、素晴らしいことだと思うんです。

死語になったカタカナ言葉は、その残骸が悲しい(笑)。とくに、当時最先端だったものほど、悲しいですよね。たとえば、「ハッスル」なんか。

伝えようとするメッセージを、それが美しいものであれ、醜いものであれ、最も的確に表現すること、これが音楽も含めすべての芸術に求められていることなんだから

本屋に本を置いてない。置いてあるのは、雑誌と受験参考書と漫画だけという店が、ものすごい勢いで増えているのだ。

「人間てのは、悪いことするとね、それを必ず誰かに言わずにはいられなくなる生き物なんだなあ。

人間の音声だけでなく姿形や背景までをも、瞬時に、しかもまるであるがままに伝達できるようになってきている。それでも、人々は、直接出会い、同じ空気を吸い、肌ふれあうことを求めてやまない。

「何しろ、ロシア語の通訳は、英語と違って、数が限られていますからね。値段は上げ放題、質は下げ放題ですよ」

間違いというのは、他人の間違いでも自分の間違いでも、正反対に間違うのは絶対気づくんです。ところが、微妙な違いだと気づかないんですよ。

「あーら、米原さんて、最近はもっぱら通訳業の産業廃棄物をチョコチョコッとリサイクルして出版部門へ流し、甘い汁を吸っているっていう評判だわよ」

人間の脳味噌って、わからないものが多すぎると全部入ってこない。情報としてわからないものが二割くらいだと印象に残って入ってくるんだけれど、もう五割以上わからないと、ほとんどそれ全部灰色で、何もわからない。

人間てのは、悪いことするとね、それを必ず誰かに言わずにはいられなくなる生き物なんだなあ。

作品の長さと作家のモテ度は反比例する。そういえば、誰かが、 「作品の長さは、作家が女を口説き落とすまでにかかる時間に比例する」 とか言っていたような。

「中庸」とか「中道」と言うと、まず何はさておき、「極端を排し」と思われがちだが、本来は、むしろ極限の偏りをことごとく取り込んだ過酷にして懐の深いスケールの大きいものではないだろうか。それが、「中途半端」との本質的な違いだと思う……。

ロストロポービッチさんはグランドピアノに向かうと、耳が張り裂けんばかりの大音響を響かせ、次に聞こえるか聞こえないかスレスレの音を響かせた。 「演奏家は、この二つの両極端のあいだのすべての音階を弾き分けられなくてはいけないよ」 そう、ショスタコービッチ先生はさとしたそうだ。 「ディミヌエンド(徐々に音を小さくしていく演奏)もクレッシェンド(徐々に音を大きくしていく演奏)もこの幅があってこそ生きてくるんだ。ところが、君たちの演奏は、ぼくの若い頃ソックリだ。大きい音を出せば効果的と思い込んでる。せいぜいフォルテとメゾフォルテとフォルテッシモしか弾けないのだね」 さらに、ショスタコービッチ先生は、こうも言ったそうだ。 「世の中にはピアニストを名乗る輩が掃いて捨てるほどいるが、そのうちの大多数は、ピアノ(小さな音)が弾けた例がない。世の中に蔓延る自称ピアニストたちは、ぼくに言わせりゃ、メゾフォルティストだね。メゾフォルティストになるのが、一番簡単だってことだ」 そんな戒めは、わたしの耳にも痛かった。おそらく音楽家のみならず、通訳も、いや情報伝達にたずさわる人々の多くが陥りやすい悪循環を見事に言い当てている。受け手に確実にメッセージを届かせたい。その手応えが欲しい。そういう職業的使命感が高じると、ついつい誇張という安易な手段に頼ってしまう。 「あなたの評価はいつだって絶賛するか罵倒するかね」 日常会話においてさえ、しじゅう表現の幅の貧しさを指摘されているわたしである。

マリアが処女で懐妊したというのも、これは誤訳の問題だとどこかで読みました。ヘブライ語では、単に結婚をしないで、いわゆる正式な結婚をしないで子供を産んだという意味なんだそうです。それをラテン語に訳すときに、そういう概念がなかったんで、処女になったという。

初めてジプシー・ダンスを見た人は、一見、ほとんど動きがないことに驚く。というのは、動きの派手で激しい踊りよりもはるかに動きを感じ取るからだ。

国際会議でインド人を黙らせ、日本人に語らせることができたら、議長として大成功

「そうねえ、池を造るようなものなのよ。池の向こう岸を論文のたどり着く最終結論としてだねえ、池のこちら側から対岸にいたる道筋に沿って池の中に飛び石を置いていく。真っ直ぐで等距離なんてつまらないから、遊びを取り入れることを忘れちゃいけないよ。蛇行させたり行きつ戻りつさせたり、間隔もさまざまにしてね。この飛び石が、いわば他人の論文の引用や、具体例。そして男がね、長めのスカートはいてパンツははかないで、ここが肝心なんだよ、パンツはあくまでも脱いでだねえ、池のこちら側から向こう岸へ向けて飛び石の上をヒョイヒョイと渡っていくわけ。そうすると、水面にチラリチラリと男の本音が映るでしょう。ちゃんとは見えないから、ついよく見ようと身を乗り出してしまうじゃない。そうやって、最後まで読者を引っ張っていく。これが秘訣といえば秘訣かなあ」

「中庸」とか「中道」と言うと、まず何はさておき、「極端を排し」と思われがちだが、本来は、むしろ極限の偏りをことごとく取り込んだ過酷にして懐の深いスケールの大きいものではないだろうか。それが、「中途半端」との本質的な違いだと思う。

ロストロポービッチさんはグランドピアノに向かうと、耳が張り裂けんばかりの大音響を響かせ、次に聞こえるか聞こえないかスレスレの音を響かせた。 「演奏家は、この二つの両極端のあいだのすべての音階を弾き分けられなくてはいけないよ」  そう、ショスタコービッチ先生はさとしたそうだ。 「ディミヌエンド(徐々に音を小さくしていく演奏)もクレッシェンド(徐々に音を大きくしていく演奏)もこの幅があってこそ生きてくるんだ。ところが、君たちの演奏は、ぼくの若い頃ソックリだ。大きい音を出せば効果的と思い込んでる。せいぜいフォルテとメゾフォルテとフォルテッシモしか弾けないのだね」  さらに、ショスタコービッチ先生は、こうも言ったそうだ。 「世の中にはピアニストを名乗る輩が掃いて捨てるほどいるが、そのうちの大多数は、ピアノ(小さな音)が弾けた例がない。世の中に蔓延る自称ピアニストたちは、ぼくに言わせりゃ、メゾフォルティストだね。メゾフォルティストになるのが、一番簡単だってことだ」  そんな戒めは、わたしの耳にも痛かった。おそらく音楽家のみならず、通訳も、いや情報伝達にたずさわる人々の多くが陥りやすい悪循環を見事に言い当てている。受け手に確実にメッセージを届かせたい。その手応えが欲しい。そういう職業的使命感が高じると、ついつい誇張という安易な手段に頼ってしまう。 「あなたの評価はいつだって絶賛するか罵倒するかね」  日常会話においてさえ、しじゅう表現の幅の貧しさを指摘されているわたしである。

Twitter 3 48 Rss 3 48 follow us in feedly
スポンサード リンク